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兄、姉、妹と写る7歳の次郎(右端)。白洲次郎心月院ゆかりのスポット三田市にある白洲家の菩提寺には一族の墓が並ぶ。とりわけ、ユニークな形で目立つ次郎(右)と妻・正子の墓は、正子が生前、彫刻家の高木辰夫に依頼したもの。寺の本堂には祖父、父、次郎と親子3代の功績を紹介したパネルが展示されている。問心月院4079(562)4310白洲屋敷跡次郎が英国留学中、建築道楽だった父の文平が伊丹市内に建てた屋敷は、伊丹市の調査により約3万平方メートルあったことなどが判明。現在、春日丘4丁目の散策路沿いに案内碑が立っている。当時、和風の木造建築のほか美術館やボタン畑もあったとされ、次郎が暮らしたのは帰国後、東京の新聞社に就職するまでのわずかな期間だったと推察されている。屋敷の長屋門は次の所有者の時代に東野5丁目の民家に移築され、今も現役の門として使われている。※写真上部の邸宅が白洲屋敷。撮影は昭和初期と推測される(伊丹市立博物館提供)。国中製学の時自代動、車父に親乗にる買次い郎与(え右ら端れ)。た米※家庭で何不自由なく育った次郎は県立第一神たり、当時首相だった近衛文麿の政策ブレー跡的な日本経済復興のけん引役を果たす通まま三田の菩ぼ提だい寺、心月院に眠っている。で大成功を収めた関西屈指の富豪。裕福なには駐英国大使だった吉田茂と親交を深め新しい組織の創設を目指す。それが後に奇くを語らなかった男は、数々の謎を抱いた事を務めた儒学者で、父・文平は綿花貿易点や実務能力を身に付けていく。30代半ばから転換を図るため、商工省を解体し全く関連する資料一切を自らの手で燃やし、多祖父・退蔵は明治維新後に三田藩で大参役として海外を飛び回り、グローバルな視必要だと考えた次郎は、従来の内需拡大型の鍵を握った人物とされながら、それらにの次男として生まれた。な英語力を駆使して商社や水産会社の取締当。日本経済が自立するには貿易の拡大が次郎は政治の表舞台から身を引く。昭和史35(1902)年、現在の芦屋市で白洲家その後は留学時代に育んだ人脈と流ちょう局である貿易庁長官として経済復興を担に立ち会い占領期間の終了を見届けると、た」など数々の伝説を持つ白洲次郎。明治を余儀なくされ、東京の英字新聞社に就職。第二次吉田内閣発足時には、商工省の外26年、サンフランシスコ講和条約の調印言わしめた」「日本で最初にジーンズをはい(1928)年、父親の会社倒産により帰国の立場を可能な限り守ろうと奔走した。した彼の祖父や父親とも重なります」令部)に『従順ならざる唯一の日本人』と紳士道をたたき込まれた。しかし、昭和3意見を主張。憲法改正問題などでも、日本だという武士道を体現し、富を社会に還元を置き、「GHQ(連合国最高司令官総司頭で考えることを学び、徹底的に英国流のの高官と折衝する際は、毅然とした態度である者はそれにふさわしい行動をするべき吉田茂首相の側近として政治の中枢に身進学先のケンブリッジ大学では、自分の与に就任し、日本政府の窓口としてGHQ崎敏昭さんは言う。「その姿は、高い立場にあれば」と父親から英国留学を言い渡される。んなく発揮した。終戦連絡中央事務局の参取ったのです」と、三田市生涯学習課の山ビ英ジ国ネ仕ス込かみらの政ス治タのイ世ル界でへが掛かり、「学校の枠に収まりきらないので終戦後は吉田の右腕となり、実力をいかに基づく使命感からその場に応じた行動を戸中学校に進学すると暴れん坊ぶりに拍車たのではなく、自身のプリンシプル(原則)ら吉つ田腕首を相振のる懐う刀としてりましたが、決して私利私欲のために動い「時に、強引な手法は批判の対象にもな“従順ならざる唯一の日本人”年には新たに電気事業の再編成に取り組む。持つようになっていった。生させると惜しげもなく長官を辞任し、翌戦後日本の復興をリードしたンに加わったりするなど、政界との接点を商産業省である。同省を短期間のうちに誕29