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柳田國男高藤稲荷辻川の街道筋の少し南に位置する。後年、稲荷信仰や狐(きつね)の研究に取り組むきっかけになったといわれる。ゆかりのスポット福崎町立柳田國男・松岡家記念館鈴の森神社少年時代によく遊んだ場所。境内のヤマモモの木に登ることを母親に禁じられていたので、友達が実を食べる様子をうらやましく見ていたという。駒ケ岩[上]8人兄弟のうち3人は早世。残った5人はそれぞれの道で才能を開花させた。左から松岡映丘(八男・日本画家)、松岡静雄(七男・言語学者)、柳田(六男)、松岡鼎(長男・医師)、井上通泰(次男・歌人)。[右]晩年、三木家に宛てたはがき。辻川を懐かしむ記述がある(三木美子さん所有)。※の写真は福崎町立柳田國男・松岡家記念館提供29市川の川べりにある巨岩。夏には、この岩の上で服を脱ぎ川に飛び込んだという。柳田國男とその兄弟に関する著書や絵画、愛用品などを展示。生家も併設する。入館無料。5月31日まで企画展「松岡映丘画稿展」を開催。460790(22)1000http://www.kinenkan.town.fukusaki.hyogo.jp/※う。11歳の時、父親が親しくしていた縁でした」と町立柳田國男・松岡家記念館の主り研究に専念する。研究意欲は衰えること寄せる地元の人たちの敬慕の情は深い。ら成績優秀、特に記憶力が抜群だったといしが豊かになるのかというテーマがありまを最後に官を辞し、朝日新聞社の客員とな進む。没後50年を経た今も、民俗学の父へ松岡操の血を受け継いで、子どものころかの民俗学の研究の根底にはどうすれば暮ら大正8(1919)年、貴族院書記官長8(1875)年。医師で儒者だった父、む姿に心を痛めたからだといいます。柳田(2014)年度の公開に向けて改修工事が26イドが活躍し、三木家の旧宅は平成ぶき屋根の家に柳田が生まれたのは、明治由は幼少期に大飢き饉きんを体験し、農家の苦し自著で「日本一小さい家」と称したかやでは農政学を学んだ。「農政学を選んだ理あった。傾倒するが、30年に入学した東京帝国大学望年郷をの重念ねはる強にくつれて在、辻川ではゆかりの地を案内する観光ガ柳田は87年にわたる人生の幕を閉じる。現和37(1962)年3月。その5カ月後、在の福崎町西田原辻川、北条街道沿いに宅へ移る。高等学校時代には文学に大きく民俗学の夜明けを告げる書となった。福崎町の第1号名誉町民となったのは昭の民俗学の礎を築いた柳田國男。生家は現20年、茨城県で医院を開業していた長兄不思議な話119編を収めた一冊は、日本なっていったのかもしれない。地の習俗や信仰、伝承などを調査し、日本と述懐している。や河か童っぱ、神隠し、座敷童わらしなど同地に伝わるで、出発点である故郷への思いはより強く明治の終わりから昭和にかけて、全国各よって民俗学者としての素地がつくられた遠野村(現遠野市)の地勢に始まり、天て狗んぐされる。民俗学者としての名声を得る一方うで、後年、膨大な蔵書で知り得た雑学に代表作となる「遠野物語」を発表。岩手県ておくべきだったという趣旨の文章が散見民少俗年学時者代とのし体て験のが基礎にる。柳田は一日の大半を書庫で過ごしたその故実地元の大庄屋、三木家に1年ほど預けられなる。を「42年後のちのかりことばのき、狩宮詞崎記県」椎に葉ま村とのめ狩、猟翌や年焼にきは畑年に三木家と交わした書簡にも、もっと帰っ存在があったと思います」と村上さん。晩く先々の土地の習わしに興味を持つようにがよく出てきます。心の中には常に辻川のした法制局でも長期出張が多く、柳田は行際、『自分の故郷はこうだった』という記述日本の民俗学の扉を開く回り共済制度の重要性を説いた。次に赴任だった。「著書には各地の伝承を紹介する卒業後は農商務省に入省。全国の農村を柳田が辻川に帰省したのはわずか数回各地の風習を入念に調査し任学芸員、村上由希子さんは話す。なく、生涯で百以上の著書を残した。