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※嘉納治五郎灘中学校・高校ゆかりのスポット神戸市東灘区にある中高一貫の私立校。嘉納は顧問として昭和3(1928)年の開校に尽力し、校是を「精力善用」「自他共栄」とした。今年6月に新築された柔道場には直筆(行書)の校是が掛かり、前庭には新たに銅像が建てられた。県立武道館御影郷灘五郷の一つで、嘉納が幼いころから慣れ親しんだ場所。現在も酒造会社が点在し、嘉納の本家筋に当たる蔵元もある。姫路市の手柄山に開館して今年で丸10年。国内トップクラスの規模を誇る2つの道場を備え、全国レベルの大会も開かれる。嘉納を筆頭に県内ゆかりの武道家を紹介する展示・情報コーナーも。問4079(292)8210 6079(292)9210http://www.hyogokenritsu-budokan.jp/欧米各地でも熱心に指導した。ベルリンでは警察官相手に投げ技を実演した。介さんは話す。他共栄」には自分の技を磨かせてくれた相た嘉納は、日本人と欧米人との体格、体力の歴史に詳しい兵庫教育大学教授の永木耕た心身の全ての力を社会のために使う、「自れた。海外でも柔道を指導する機会が増え力をつけたいと思っていました」と、柔道る。「精力善用」は柔道の修行で身に付けンピック委員会(IOC)の委員に推挙さ「嘉納は相当な負けず嫌いでしたから、腕育的観点で柔道を創始したことがうかがえ48歳の時にアジアの国から初めて国際オリたが、小柄で体が弱く、いじめられていた。講道館柔道の基本理念からは、嘉納が教名だったことから明治42(1909)年、上京。官立東京開成学校では成績優秀だっを鍛練する「柔道」だった。柔道の創始者としても教育者としても有年には明治政府の官吏になった父に付いてを開く。目指したのは柔術ではなく、心身事も受けていたという。明治3(1870)講師になったばかりの15年に道場「講道館」父、治郎作は廻船業を営み、幕府からの仕の流派を基盤に嘉納流を確立し、学習院の治五郎は灘の酒造家の分家筋に生まれた。に入門し、続いて起倒流も習得。この二つ東I京O五C輪委の員招と致しにて尽力江戸末期の万延元(1860)年、嘉納だ。東京大学に入学した10年、天神真楊流入れられていった。術は、非力な自分に向いていると考えたのめたこともあり、全国の学校で柔道が取り教強育く的な価ろ値うをと見始いめだたす柔術味を持つ。相手の力を利して相手を倒す柔嘉納が東京高等師範学校の校長を長く務「強くなりたい」と願う嘉納は柔術に興道が採用されるきっかけとなった。また、術大会で好成績を挙げ、警察官の訓練に柔下生が集まった。創立5年目の警視庁の武“柔道ニッポン”の父講道館には嘉納の人徳を慕って優秀な門められている。世界を股にかけて活躍した手に感謝し共に成長する、という意味が込直筆の書。50歳代のころ、六甲の南を指す「甲南」の号を使っていた。旧制灘中学校(当時)の講堂で講演。昔も今も講堂には楷書の校是が飾られている。※※の写真は講道館蔵つくった柔道が正式競技に採用された。たのは24年後の39年。この大会から嘉納がの激化で幻に終わり、東京に聖火がともっ結局、日本初のオリンピックは日中戦争肺炎にかかり、満77歳でこの世を去る。IOCカイロ総会からの帰国途上に船内でに15年の開催権を勝ち取った。しかし13年、では老骨にむち打って熱弁を振るい、つい和11(1936)年のIOCベルリン総会を東京オリンピックの実現に費やした。昭柔道との共通点を見いだした嘉納は、晩年間を育成するというオリンピックの理念に、スポーツを通して心身の調和のとれた人響しています」と永木さんは語る。て自分の体が頑健になった経験が大きく影考えたのでしょう。その根底には柔道によった。「日本人は体を鍛えなくてはいけないとツ振興を目的に大日本体育協会を設立しの差を痛感する。そこで44年、国民のスポー29