ブックタイトルgokoku2013aki

ページ
31/40

このページは gokoku2013aki の電子ブックに掲載されている31ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

gokoku2013aki

ブックを読む

Flash版でブックを開く

このブックはこの環境からは閲覧できません。

概要

gokoku2013aki

淀川長治ゆかりのスポット新開地能福寺幼少のころ、境内に設けられた映画や芝居の小屋を目当てに足しげく通った神戸市兵庫区の能福寺。兵庫大佛の見学に訪れる西洋人を見ることも楽しみの一つだったという。平成3(1991)年の大佛再建時には自らの講演料を寄進し、協力を惜しまなかった。問能福寺4078(652)171520館以上の映画館や劇場が立ち並んでいたこの地で少年時代、米国をはじめイタリア、フランス、ロシアなど世界各国の映画を楽しんだ。10年前からは映画のまちとしてPRしようと、住民らが中心となって毎年10月に新開地映画祭を開いており、今年は25日(金)~27日(日)に開催される。問新開地まちづくりNPO4078(576)12186078(576)1219映画記念碑「メリケンシアター」明治29(1896)年に日本で初めて外国映画が上映されたのが神戸だったことなどを記念し、昭和62(1987)年に神戸市中央区のメリケンパークに建てられたもので、淀川は資金集めに奔走した。スクリーンに見立てた石碑の前には淀川選定の映画スター42人の名が刻まれた石が観客のように並んでいる。東京で開いた第1回神戸100年映画祭の記者発表会場で。今年の「新開地淀川長治メモリアル」部門は11月8日(金)~10日(日)に上映される。問NPO神戸100年映画祭4078(954)8044 6078(954)8066映画記念碑の建立に向けて、神戸市中央区で募金運動の口火を切った時の様子。の時に見た洋画に感激。としてその魅力を伝え続けた。た彼は、4歳でその面白さに目覚め、16歳で生涯を映10歳いたものの、映画への情熱は抑えられず、は、彼が生き生きと語る解説映像付きで。戻される。しばらく姉の輸入美術品店で働前までの32年間、視聴者と映画の橋渡し役も淀川の愛した作品群が上映される。一部物心が付く前からスクリーンを見て育っるところとなり、わずか2年で神戸に連れともにたちまち人気に。89歳で亡くなる直下浦さん。それから18年、映画祭では今秋屋へ一家そろって毎週通っていたという。念願かなった喜びもつかの間、実家の知ラ、サヨナラ」という最後の決めぜりふとた。「神戸が大好きな方でしたからね」と、写真好き。新開地に立ち並ぶ活動写真小の編集部に入る。とも呼ばれた名調子は「サヨナラ、サヨナ依頼に二つ返事で了承し、PRに一役買っを営んでいた父を筆頭に、家族は大の活動館通いを続け、ついには愛読誌「映画世界」洋画劇場)の解説者に就任すると、淀川節神戸100年映画祭では、特別顧問の就任一大歓楽街としてにぎわう新開地で置き屋京へ。しかし、大学には一日も行かず映画れた。41年に「土曜洋画劇場」(後に日曜なったという。翌年に再スタートを切った(1909)年に神戸市兵庫区で生まれた。42そして、旧制中学卒業後は進学のために東ら者西の部目劇にの留連ま続りテ、レ昭ビ和ドラ35(1960)マの解説を任さから贈られた寄付金が開催への推進力に画がまだ活動写真と呼ばれていた明治の機微を読み解く力を身に付けていった。年か「映画の火を絶やさないでほしい」と淀川に愛された映画評論家の淀川長治は、映ん、俳優の表情やちょっとした仕草から心を前に、熱心に映画への愛を語る姿が関係賛金が集まらず運営が危ぶまれた際には、豊富な知識と独特の語り口でお茶の間を見る目を養い、作品の良しあしはもちろが、彼をメディアの表舞台へと導く。会員国際映画祭が阪神・淡路大震災の影響で協映新画開を地教に科通書いに詰育めつを運び映画を浴びるほど見るうちに、芸術と直接交流したいと結成した映画友の会平成7(1995)年、前身のKOBE多感な時期に毎日のように新開地に足戦後、映画雑誌の編集長在任中、読者さんだ。画と共に生きることを誓った。映画祭の初代事務局長を務めた下浦郁子でした」と話すのは、NPO神戸100年ど、一般の人にも分かりやすい解説が魅力映画の伝道師映テ画レのビ普で及のに解尽説力で振りも交えながら見るポイントを示すな担当し、29歳の時に異動で再び上京した。ま引き出すような感じで、番組冒頭では身銀幕と共に歩み続けた映画配給会社の大阪支社に入社。宣伝を「映画に飛び込んで作品の良さをそのま29