ブックタイトルgokoku2013natu

ページ
31/40

このページは gokoku2013natu の電子ブックに掲載されている31ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

gokoku2013natu

ブックを読む

Flash版でブックを開く

このブックはこの環境からは閲覧できません。

概要

gokoku2013natu

田中千代ゆかりのスポット神戸女学院大学昭和29(1954)年から16年間、教授として意匠学と被服構成を担当し、西宮市の岡田山にあるキャンパスに足を運んだ。千代が教えていたと考えられる家政学部が使っていた校舎、理学館は当時と同じたたずまい(写真下)。図書館には現在、千代の関連書籍を所蔵している。田中千代学園発祥の地碑芦屋市大原町にある学園の跡地は、今はマンションに。正門脇に立っていた木だけが残され、根元の「田中千代学園発祥の地」と刻まれた記念碑とともに歴史を伝えている。専門学校は平成16(2004)年に東京渋谷区の東京校に統合され、21年に校名を田中千代ファッションカレッジに変更した。〔左〕甲南女子大学のユニバーシティ・スーツは昭和39年の開学時に千代がデザインしたもので、今も現役で使われている。(た〔地左27。〔年と〕ご上建昭ろ〕デ物和)ザを。イ購22年ン入、科し芦で、屋講教に義育をの3す拠0る点0坪千との代し土ス・パリではすっかりファッションのとり住吉村(現神戸市東灘区)での暮らしに慣変化に富んだものをと苦心するうちに、洋飾界に夢を抱く若者たちを育てている。舞台衣装に興味を持ち、次に移ったフランを紹介してもらった。そして1年が過ぎ、当するようになり、限られた素材で何とかを冠した専門学校に受け継がれており、服いう本領を発揮。最初に滞在した英国で任に際し、千代は武藤夫人を頼って住まいやがてショーウインドーの飾り付けも担その理念は今も東京・渋谷にある彼女の名夫に同行して海を渡ると、物おじしないときっかけをつくる。帰国直後、夫の神戸赴強い知的探求心があったのだと思います」忙となった後も晩年まで教壇に立ち続けた。昭和3(1928)年、欧米へ留学する子と出会ったことが、後に服飾界へと進む島緑さんだ。「勇敢な行動力の根底には、重視した教育を貫き、デザイナーとして多田中薫と結婚し評するのは、長年、千代のそばで働いた新千代の人生は、たこ18歳とので時大にき経く済変地化理す学る者。の船上で鐘淵紡績㈱の元社長夫人、武藤千世礎技術をしっかりと身に付けさせることをぶ充実した海外生活が終了。日本に向かうまうのが千代先生のすごいところです」と学校の形式へと発展。“健全な根”となる基大臣を務めた松井慶四郎。お嬢様育ちのドイツや米国でも服飾を学び、3年に及ンスにぱっと飛び付き、見事に形にしてしさな洋裁教室は、見る見る生徒数を増やし、(1906)年に生まれた。父は後に外務39しての心構えをたたき込まれた。「留学中もそうですが、舞い込んだチャ一方、働き始めてすぐに自宅で開いた小服飾界をけん引した田中千代は、明治でデザインの基礎を習得し、デザイナーとたことのないような世界を次々に紹介した。デザイナーとして、教育者として日本のや、単身会いに行き、そのまま入学。そこ付けと製作・発表など、当時の日本人が見デ神ザ戸イへナのー移へ住のが一歩に人物がスイスで学校を開いていると知るディオールのオートクチュールの型紙の買いれた衣装はどれも同じ製作者であり、その服時飾代文の化最を先広端めをる発信しファッションショーの開催、クリスチャン・こになった。そして、舞台や雑誌で心引か初めての仕事に全力で当たった。めた。その後も国内でのプロのモデルによる割で、留学中に得た知識をフルに生かし、初のファッションショーを開き、大成功を収ン、裁断、仮縫いまでを施すのが千代の役服飾界のパイオニア生地を購入した人に採寸から服のデザイに爆は発そ的れなら人を気携をえ呼てんニだュばーかヨりーでクなでく日、本人25年ビス・ステーションの手伝いを頼まれ、快諾。く。東西の文化を融合させた斬新な発想は日本初を次々に実現したれたころ、鐘紡が新たに心斎橋に開くサー服地を使った着物“ニューキモノ”を思い付29