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更新日:2016年6月1日

水害からいのちとくらしを守ろう

近年、開発や都市化が進んだことや、局地的な大雨が増えたことで、これまでの「ながす」治水対策だけでは洪水による被害を防ぐことが難しくなっています。県では、河川や下水道の整備による「ながす」河川下水道対策のほか、雨水を貯留・浸透させて流出を抑える「ためる」流域対策、日頃から「そなえる」減災対策の3つを組み合わせた総合治水対策や土砂災害対策を進めています。

総合治水対策

「ためる」対策

雨水タンク(尼崎、西宮、芦屋)

「ながす」「ためる」「そなえる」を組み合わせた総合的な治水対策を進めています。

 

「ながす」
川や下水道で流せる水の量を増やすための対策(河川・ダムの整備など)
「ためる」
雨水が川へ一気に流れ出さないための対策(雨水タンク、校庭貯留など)
「そなえる」
大雨による被害を小さくするための対策(防災訓練、防災学習など)

 

土砂災害対策

土砂防護柵や砂防えん堤などを設置するとともに、土砂災害警戒区域や特別警戒区域を指定し危険の周知や避難体制の整備を進めています。
自分の家が警戒区域に指定されているか兵庫県CGハザードマップで確認してみましょう。

 

土砂防護柵の設置(西宮市名塩町)

 

砂防えん堤の設置(西宮市山口町)

 

CGハザードマップ

住宅や家財を守る「フェニックス共済」

阪神地域の傾斜した家屋

あなたの家は大丈夫ですか?近年、地震が多発し、南海トラフ地震の発生も危惧されています。
熊本地震でも多くの住宅が倒壊しました。また、ゲリラ豪雨など短時間に強い雨が降るケースが増加し、河川の氾濫や土砂崩れなどの災害が頻発しています。

フェニックス共済は、県が創設した安心・安全の制度です。地震だけでなく、あらゆる自然災害が対象です。万が一に備え、ぜひご加入ください。

「フェニックス共済」くわしくはこちら

学ぼう土砂災害

仁川百合野町地区地すべり資料館

土砂災害の発生の仕組みや対策技術、備えについて学べます。
◆開館時間=10時~16時◆休館日=月曜、木曜、年末年始◆入館料=無料
西宮市仁川百合野町10-1電話:0798-51-5904※駐車場はありません

阪神南の街道をゆく2(有馬街道(尼崎市))

大阪から有馬温泉へ行く道筋は「有馬街道」と呼ばれました。尼崎市内では、神崎から北上し、藻川沿いに猪名寺・伊丹に至る「本道」と、次屋・久々知・塚口を通って昆陽(伊丹市)に至り宝塚市内で本道と合流する「間道」の2コースがありました。
今回は、神崎から伊丹まで、「有馬街道」(本道)を歩きます。

神崎

神崎は、天平年間、行基によって築かれた摂播五泊の一つ、河尻泊がはじまりといいます。奈良時代末期に神崎川が吹田市付近で淀川とつながれると、瀬戸内海を通ってきた海船は、河尻に点在する神崎・杭瀬・大物などの港津で、積み荷を舟底の浅い川船に移しかえ、京都へ運びました。なかでも、河口をややさかのぼった神崎は、風波を防ぐのに適し、大阪湾の海上交通と淀川水系の河川交通の結節点として栄えました。
尼崎の地形は、神崎川や武庫川が運ぶ土砂や大阪湾の沿岸流によって、東西方向に長い砂州ができ、それが徐々に南へと進んでいったといいます。砂州は3つあり、一番北が尾浜・潮江・浜、次が難波・長洲、一番南が尼崎(海人・崎)一帯(いずれも海浜部に関係する地名です)。神崎は、一番古い砂州の神崎川の河口あたりに位置したのでしょう。

有馬街道コース図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、江戸時代には、大坂と西宮を結ぶ中国街道の宿駅として栄えます。京都から西宮を経て伸びる西国街道(山陽道)が古代から重視されていたのに対して、中国街道は、海岸沿いの集落をつなぐ生活道が、近世に大坂・尼崎の発展に伴って整備されたといいます。神崎は、中国街道と有馬街道の分岐点に当たります。当時は、神崎川に橋がなく、旅人は1人40文を払って渡し船に乗ったとのことです。

JR尼崎駅から東に10分ほど歩くと、神崎川のほとりに「神崎金比羅さんの石灯籠」があります。金比羅大権現は、讃岐国(香川県)の金刀比羅宮に祀られた海上守護神。航海の安全を祈って、神崎の問屋や宿屋の寄付で文化元年(1804年)頃建てられた灯台です。少し北の新幹線高架沿いの「遊女塚」は、13世紀初め、讃岐へ流される途中の法然上人に念仏を授けられて、川に身を投げた五人の遊女の亡骸を葬ったもの。港町として繁栄した神崎は「天下第一の楽地」と呼ばれ、遊女が今様など諸芸を泊客に披露し、宴遊に興じる人々でにぎわったといいます。
現在の神崎は工場と住宅に囲まれた市街地。舟運の拠点の面影はなく、県道41号大阪伊丹線神崎橋から眺める神崎の渡しのあたりも、新幹線が時折通過していくだけです。

神崎金比羅さんの石灯籠

遊女塚

中国街道と有馬街道の分岐点

石灯籠から少し戻って西に行くと、須佐男神社の南西の交差点が中国街道と有馬街道の分岐点。尼崎市まちかどチャーミング賞の「田中正三邸」など、旧街道の雰囲気が残るエリアです。200メートルほど進んだダイセル化学工業神崎工場の南西角には、本道と間道の分岐点を示す道標が残されています。
ここからは15分ほどまっすぐ北上しますが、旧街道の雰囲気は全く残っていません。新幹線高架下のあたりからは、道筋も辿りにくくなり、住宅街の真ん中に残る祠がわずかに往時を偲ばせるだけです。

大井組顕彰碑

阪急神戸線の小さなガードをくぐって線路の北に出ると、東西に走るのが津門中道。塚口・富松を経て守部で武庫川を渡り、上瓦林から津門を経て西宮に至るルートですが、有馬街道は500メートルほどこの道に重なり、分岐して北西に向かいます。
しばらく行くと道の左側に水路が2本平行して伸び、やがて「大井組顕彰碑」が見えてきます。大井組は、猪名川水系で最大の井組(ゆぐみ)。東川組(田中・瓦宮・若王寺・小中島・下坂部・次屋)と西川組(久々知・潮江)の8か村を井親とし、井子9か村を含めた計17か村で組織され、江戸時代の総井掛り高は8,633石だったとのこと。猪名川と藻川の分流地点近くから取水していましたが、隣接の井組との間に水論が絶えず、特に天正20年(1592年)には、大井組と三平井組の総百姓が鑓・長刀等で大乱闘。6人が死亡し、京都所司代の裁断により庄屋7人が京都四条河原で斬首されたといいます。この年は、西宮でも鳴尾村と瓦林村が衝突した年。農民の生死をかけた水争いが各地で起きていたのでしょう。
道は水路に沿って北西に伸びていきますが、県道41号と合流するあたりから歩道が狭く、車も増え、歩きにくくなります。西に折れると、専正寺や南清水古墳のある集落があり、こちらの方が街道っぽいのですが。。。

阪急神戸線北側の一角

大井組顕彰碑

専正寺や南清水古墳のある方角

万葉の森・佐璞丘再生プロジェクト

猪名寺の交差点を渡ると交通量はぐっと減り、200メートルほど北を東に曲がると、「猪名寺廃寺跡」に出ます。巨大な塔心礎が残っていますが、発掘調査の結果、東に金堂、西に五重塔、これらを回廊が囲む「法隆寺式」伽藍配置と判明しました。川原寺式軒瓦など出土した瓦片から、創建は飛鳥時代後期の白鳳時代。天正6年(1577年)の織田信長による荒木村重の有岡城攻めで焼失したと考えられています。
廃寺跡の背後のこんもりとした森が佐璞丘(さぼくがおか)です。標高10メートルの台地は大阪湾まで一望できる景勝地で、「猪名の笹原」として万葉集などに歌われましたが、近年は手入れがされず、人が寄りつかない森になっていました。そこで、猪名寺自治会の皆さんが「万葉の森・佐璞丘再生プロジェクト」を設立。ゴミ清掃や外来種の伐採等を通じて貴重な森を再生するとともに、アニメ「忍たま乱太郎」の聖地であることを活かした忍者学校、地域に残る白壁屋敷や古墳などを巡る歴史散策などを開催。尼崎市制100周年の今年は石見神楽祭も予定されているとのことです。

猪名寺廃寺の塔心礎

佐璞丘

猪名寺のまちなみ(白壁屋敷)

大坂道

廃寺跡から有馬街道に戻り、東リ伊丹工場に沿って、北西へ向かいます。工場の塀の「猪名の笹原旧蹟」の案内板を見てしばらく行き、JR福知山線の踏切を渡ると、南(塚口方面)から来た道と合流します。杜若寺墓地の門脇には「左大坂、右尼崎」の道標が隠れるように立っています。
ここはもう伊丹市。北へ延びる有馬街道は、大坂道と呼ばれ、旧伊丹郷町まで続きます。厨子二階建ての町家や酒蔵が残り、旧街道の雰囲気が感じられます。さあ、もう少しでJR伊丹駅に到着です。

 

 

「猪名の笹原旧蹟」の案内板

杜若寺墓地門脇の道標

 

 

伊丹市内の大坂道

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