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ケミカルシューズが誕生したのは、昭和27年(1952年)頃といわれている。戦後の物資不足に喘ぐ日本で、ビニールシートを利用した靴が神戸の長田で考案され、これがケミカルシューズの始まりとされている。
当初はファッションシューズやビニールシューズ、モード靴というように、その呼び名も様々であった。これがビニール素材、いわゆる化学素材を利用した靴ということで、ケミカルシューズと呼ばれるようになる。その後、材質の改良や接着剤の開発、加工技術の研究等が蓄積され、昭和30年(1955年)頃までには製品としての基礎が確立された。
神戸市の長田区、須磨区にケミカルシューズ製造業者が集中しているのは、元々、この地域がゴム製はき物の集積地であったことや、業界の性格が手工業的であり、大手メーカーが参入し辛い環境であったこと等が考えられる。
ケミカルシューズは絶えず新しい素材の開発、改良、そしてファッション商品としてのデザイン開発能力を育み、ファッション性に富んだ靴として、靴市場に一つのポジションを確立する。また、海外にも積極的に輸出を行い、ピークとなった昭和46年(1971年)には生産足数で4000万足、金額にして246億円までに達し、外貨を稼ぐ有力な産業としての一面も持っていた。
その誕生から一貫して興隆を誇ってきたケミカルシューズ産業であったが、その後のニクソンショック、更に追打ちをかけるように石油ショックが起こり、輸出メーカーは壊滅的状況へ追い込まれ、ケミカルシューズ業界も高成長の時代から低成長時代に合わせた変化を迫られた。これ以降、ケミカルシューズメーカーはほぼ国内市場に回帰し、業界全体も内需産業へと転換が図られた。こうした中、昭和40年代後半からのカジュアル化ブームや昭和50年代のブーツブームなどもあり徐々に回復し、日本がバブル経済の真っ只中にあった平成2年(1990年)に生産金額のピークをむかえる。
しかし、これを最後にバブル経済の崩壊、さらには平成7年(1995年)に発生した阪神・淡路大震災により神戸のシューズメーカーは壊滅的な被害に遭い、その殆どが操業不能に陥った。これを機に、靴の生産地が神戸から海外へと徐々にシフトしていくことになる。
そして、生産地が中国をはじめ、東南アジアの特恵国などの海外へと大きくシフトしていく中で、数度にわたる円高や原油高、あるいはリーマンショックや東日本大震災等の外部的要因にも見舞われ、毎年のように右肩下がりとなる厳しい状況が現在も続いている。
ケミカルシューズが誕生して70年以上経過し、長い年月の間に使用する素材や製法、デザイン性等、生産する靴も大きく変わり、流通形態や消費者嗜好等の変化もあり、既にケミカルシューズという概念も無くなりつつある。
ケミカルシューズは物資不足の時代に、新たな素材として靴業界に一つのポジションを確保したが、そのケミカルシューズを誕生させ、育んできた産地が神戸長田である。そして、この産地に焦点を当てたのが「神戸シューズ」である。長い間、国内最大規模を誇る靴の産地として取り組んできた確かな技術、歴史に裏付けられたノウハウ等を駆使し、豊かな素材、洗練されたデザイン性に日本人の足に合わせた機能性を持つ付加価値の高い靴を目指し、かつてのケミカルシューズのように靴市場に一つのポジションを確立したいと考えている。生産工程図(PDF:26KB)
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