更新日:2020年8月4日

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県域の変遷

兵庫県の成立過程について紹介しています。
土佐国一国が高知県になった例もあるのに、兵庫県が播磨・但馬・淡路と、丹波・摂津の一部を加えた、五か国にまたがる大きな県になったのはなぜでしょうか。

県域図については、システムの制約上、小さな画像ですが、デスクトップ等に保存しペイントソフトで開くと大きな画像でご覧いただけます。

第1次兵庫県(慶応4年~明治4年11月)

第1次兵庫県

現在の兵庫県域においては、明治政府が成立すると、大名領は藩として旧大名による統治が続きますが、旧幕府領は、新政府が接収して府・県となり、慶応4年(明治元年・1868)5月、兵庫津周辺の幕府領を管地とする兵庫県が設置されました。これを第1次兵庫県といいます。
このころの県域は、いくつもの飛び地から成っていた上、日時の経過とともに複雑に変化していきました。
明治3年(1870)5月に起こった稲田騒動(庚午事変)のために、一時的に淡路北部を管地としたり、現在の大阪府域にも管地を有するなどしていました。

第2次兵庫県(明治4年11月~明治9年7月)

第2次兵庫県

明治4年(1871)7月、廃藩置県が行われ、藩がそのまま県となり、現在の兵庫県域には30を超える県が成立することになりました。
しかし、11月には行政区画の全面改正が行われ、現在の兵庫県域は、兵庫、飾磨(播磨全域)、豊岡(但馬全域、丹後全域、丹波3郡)、名東(阿波及び淡路全域)の4県に編成されます。このときの兵庫県は、摂津の西部5郡を管地とするもので、第2次兵庫県といいます。

第3次兵庫県(明治9年7月~)

第3次兵庫県

さらに、明治9年(1876)8月、飾磨県と豊岡・名東両県の一部が兵庫県に併合されて、ほぼ現在の県域が確定しました。これ以後を第3次兵庫県といいます。
このような大きな県域になった理由については、次のようなことが言われています。
但馬の出身で、内務卿大久保利通のもとで地租改正に従事し、その後、県知事や内務省の局長などを歴任した櫻井勉という人がいました。
櫻井は、府県統合に際し、大久保から豊岡県と鳥取県の統合に関して意見を求められたそうです。櫻井は、「豊岡・鳥取両県は歴史的に関係が深いが、両県を往来する山間部の交通が不便です。かといって兵庫県と統合すると、面積が大きすぎます。豊岡県は、飾磨県と併合するのが良いと思います。」と述べますが、大久保から、「開港場である兵庫県の力を充実させるように考え直せ。」と言われ、第3次兵庫県の原案を考え出しました。
大久保はこの案を「一府県の増減に過ぎぬが、人々が幸福になって、県庁ひとつを減らすことができるなら、一挙両得である。」と賞賛したということです。


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