神戸三宮備前兵事件
慶応4年(1868)1月、江戸幕府最後の将軍であった徳川慶喜は、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れ、大阪を脱出するなどしていました。1月1日、新政府によって西宮の警備を命ぜられた備前(岡山)藩の兵隊が神戸の三宮神社前を行進していたとき、外国の水兵が隊列を横切ったのがきっかけで、藩兵が発砲し、英・仏・米の守備兵がこれに応戦しました。外国側は、大阪湾内の諸藩の艦船6隻をすべて抑留し、神戸にあった居留地(当時は造成中)を軍事的に占領しました。
発足したばかりの新政府にとっては、諸外国を敵に回しかねない緊急事態でしたが、備前藩士 瀧善三郎を事件の責任者として、外国士官立会いの下に兵庫の永福寺で切腹することで落着しました。
このとき、新政府の外国事務掛として神戸にいた伊藤博文は、外国人に死者がなかったことを論拠に、外国代表に瀧の助命を求めましたが、受け入れられませんでした。
新政府は、事件の敏速な処理によって、最初の外交的危機を脱しただけでなく、かえって新政府が権力を持っていることや外国と友好関係を深めようとしていることを外国側に証明することになりました。