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神戸が開港してまもなく江戸幕府が倒れて明治新政府ができると、外国と交渉を行い、神戸港や神戸港周辺の旧幕府領を管理するために、慶応4年(明治元年)1月22日に兵庫鎮台が置かれます。その後10日余りで兵庫裁判所と改称すると、5月23日には裁判所を廃して、兵庫県を置きました。その後、県は、官民混合の議員が行政的事項を協議する地方民会や、医学所の開設など、他府県に先駆けて開明的な施策を実施していきます。
このころは、まだ世情も不安定で、外国兵との衝突事件(神戸三宮備前兵事件)や、淡路の分藩独立運動に対する襲撃事件(稲田騒動)、地租改正や身分制廃止に反対する一揆などが起こっています。
当初の県域は、神戸港を中心にした小さなもので、いくつもの飛地からなる島のような形をしていました。明治4年には、廃藩置県によって大名が支配する地域はなくなり、明治9年の府県の統廃合によって飾磨県(播磨全域)及び豊岡県の一部(但馬全域と丹波の氷上・多紀2郡)、名東県の一部(淡路全域)を併合して、ほぼ現在の県域が確定することになります。
西洋文明が流入するとともに、身分制の廃止や教育制度の整備が行われ、県内では、鉄道の敷設や銀行・電信局の創設、新聞の創刊など、社会制度や生活様式が大きく変わりました。神戸には外国人居留地が造成され、貿易港として発展していくと、神戸港周辺には、マッチ製造、紡績、造船、製鉄などの近代工業が起こりました。
農業技術の改良や耕地整理・水利事業等によって農業生産が増大する一方、造船、製鉄、紡績などの工業が、国際貿易港である神戸港の発展とともに発達して、阪神間の海岸部には大きな工業地帯ができあがりました。県の人口は増え続け、特に神戸・阪神間へ人口が集中しましたが、外国からの玄関口であったことから、たびたび伝染病が流行しました。
近代工業が盛んだった兵庫県は、大正期には、第1次世界大戦による好不況の影響を強く受け、大正デモクラシーを背景にして、米騒動や労働争議・小作争議がたびたび起きて、金融恐慌により、さらに激しくなっていきました。このため、県による景気・失業対策や、賀川豊彦らによる貧民救済事業など社会事業が活発に行われることになりました。
昭和初期には、財閥にまで成長していた鈴木商店が破綻するなど、経済恐慌は深刻化し、それに続く第2次世界大戦では、空襲により神戸や姫路など都市部が焼け野原になるなど、県内の産業経済や県民の生活は著しい打撃を受けました。
この時代、医療機関、教育機関や鉄道等の交通機関、電話や電気・ガス・水道といったインフラの整備がさらに進んでいきます。県政は県会を中心とした議会政治へと成長しましたが、戦争の拡大につれて戦争協力体制の確立に重点を向けることになりました。
敗戦により、日本は連合国軍の占領下に置かれ、民主主義国家として、女性の参政権を認め、知事や市町村長を直接公選制とするなど選挙制度や地方制度を改めたほか、税制改革・農地改革を実施し、教育制度を刷新するなど、社会制度は再び大きく様変わりします。県内では、戦災復興の過程で産業経済基盤の整備、町村合併が進みました。
日本経済は著しい成長を遂げ、神戸港における貿易額も著しい伸びを示すようになりました。播磨地域の工業開発が進み、鉄道や道路など交通網の整備が一層進んで、人口の増加とともに大規模な宅地開発も行われました。県民の生活水準も向上しましたが、繁栄の一方で現れた過密・過疎・公害・消費者問題などが深刻化します。
その後、ドルショックやオイルショックが相次ぎ、高度経済成長から一気に安定成長時代に、さらに低成長の時代になりました。
平成期には、バブル経済の崩壊を引き金にして深刻な不況に陥るとともに、阪神・淡路大震災によって、県内は大きな被害を受けましたが、県では、21世紀にふさわしい兵庫の創造を目指して、阪神・淡路大震災からの創造的復興や、少子・高齢化、高度情報化、地球温暖化といった課題に取り組みました。
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