更新日:2020年8月4日

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県域の歴史

1平安時代以前

県域の歴史は古く、比較的早くから農耕が始まって、地域の有力者の存在を示す古墳などの遺跡や銅鏡のような遺物が県内各地から数多く発見されています。県内各地を豪族が支配していましたが、朝廷の力が及ぶと県域に摂津(西部)・播磨・但馬・淡路・丹波(氷上郡・多紀郡)の5カ国が置かれ、それぞれの国に、都から国司と呼ばれる役人が派遣されて地域を支配し、税の徴収などを行いました。

平安時代には、兵庫の地に「大輪田の泊」という港が作られ、瀬戸内海を往来する船の寄港地となっていました。この港を平清盛が宋(現在の中国)との貿易の拠点として大規模に修築しました。一時は、清盛によって都が移され(福原京)、周辺は平氏や源氏の軍勢による合戦の舞台ともなりました。

このころには、県域各地にいくつもの荘園ができました。荘園は、都の貴族や寺社などの私有地で、領主らは、国の支配を排除して、独自に課税を行うなどしました。

なお、兵庫の地名は、この地に武器を収める倉(兵庫)が作られたことから名付けられたとも考えられますが、よくわかっていません。

2鎌倉時代~戦国時代

鎌倉時代になると「大輪田の泊」の名はしだいにすたれ、「兵庫津」という名で呼ばれるようになり、東大寺などの寺院が港を出入りする船から税を徴収し、港の修理等を行っていました。

鎌倉幕府は、守護や地頭を置いて県内各地を支配しましたが、そのうち、悪党と呼ばれる武士の集団が台頭し始め、田畑を荒らしたり、領地や財産を奪ったりするほか、合戦までも行って暴れ回りました。兵庫津もしばしば悪党の襲撃を受けます。

室町時代になって、将軍足利義満が明(現在の中国)との貿易を始めると、兵庫津は遣明船の発着港となり、国際貿易港としてますます発展して行きました。県域内では、農漁業のほか、製塩業(淡路)、酒造業(摂津)、製紙業(播磨・但馬)、鉄や銅の製産といった産業が起こっていました。

室町時代から戦国時代にかけて、県域はたびたび戦乱に見舞われることになります。足利尊氏、楠木正成、新田義貞といった南北朝時代の武将をはじめ、細川氏や山名氏、赤松氏らの守護大名、また、豊臣秀吉・明智光秀・荒木村重らの戦国武将が県域で合戦を行いました。兵庫津も、池田信輝により兵庫城が設けられ、城下町として整備されますが、このころには、国際貿易の舞台は堺に移っていました。

3江戸時代

江戸時代には、県域に領地を持つ大名たちが、城と城下町の整備をします。現在、世界文化遺産に登録されている姫路城は、池田輝政が壮大な城に築き直したものです。

このころ、県域内では、綿作・菜種作、酒造業、製紙業、鉱業のほか、絞油業、綿織物や柳行李、縫針の製産、金物業、製塩業、窯業、養蚕業などの産業がさかんになりました。また、摂津地域の漁民は、綿作・菜種作などの肥料になるイワシを求めて関東などへも出漁していました。

兵庫津は、江戸時代になって、上方と日本海側地域を結んで交易を行う北前船の基地として再生し、寄港地となった但馬沿岸も賑わいました。工楽松右衛門や高田屋嘉兵衛、北風荘右衛門といった大商人が生まれ、蝦夷地(今の北海道)の開発や交易で活躍しました。

後期になると、しだいに世直しの気運が高まり、一揆や打ちこわしが頻発します。さらに、鎖国政策をとっていた幕府に対し、開国を求めて欧米諸国の軍艦が来航するようになると、生野では尊攘派の志士が地元の農民を巻き込んで挙兵する事件も発生しました。

また、欧米諸国は、兵庫津での貿易を求めましたが、兵庫は天皇のいる京都に近かったこともあり、なかなか開港が許可されませんでした。

それでも、慶応3年12月7日(1868年1月1日)には、兵庫(神戸)が国際貿易港として開港し、近代兵庫への第1歩を踏み出します。

4明治前期

神戸が開港してまもなく江戸幕府が倒れて明治新政府ができると、外国と交渉を行い、神戸港や神戸港周辺の旧幕府領を管理するために、慶応4年(明治元年)1月22日に兵庫鎮台が置かれます。その後10日余りで兵庫裁判所と改称すると、5月23日には裁判所を廃して、兵庫県を置きました。その後、県は、官民混合の議員が行政的事項を協議する地方民会や、医学所の開設など、他府県に先駆けて開明的な施策を実施していきます。


このころは、まだ世情も不安定で、外国兵との衝突事件(神戸三宮備前兵事件)や、淡路の分藩独立運動に対する襲撃事件(稲田騒動)、地租改正や身分制廃止に反対する一揆などが起こっています。


当初の県域は、神戸港を中心にした小さなもので、いくつもの飛地からなる島のような形をしていました。明治4年には、廃藩置県によって大名が支配する地域はなくなり、明治9年の府県の統廃合によって飾磨県(播磨全域)及び豊岡県の一部(但馬全域と丹波の氷上・多紀2郡)、名東県の一部(淡路全域)を併合して、ほぼ現在の県域が確定することになります。


西洋文明が流入するとともに、身分制の廃止や教育制度の整備が行われ、県内では、鉄道の敷設や銀行・電信局の創設、新聞の創刊など、社会制度や生活様式が大きく変わりました。神戸には外国人居留地が造成され、貿易港として発展していくと、神戸港周辺には、マッチ製造、紡績、造船、製鉄などの近代工業が起こりました。


5明治後期~昭和前期

農業技術の改良や耕地整理・水利事業等によって農業生産が増大する一方、造船、製鉄、紡績などの工業が、国際貿易港である神戸港の発展とともに発達して、阪神間の海岸部には大きな工業地帯ができあがりました。県の人口は増え続け、特に神戸・阪神間へ人口が集中しましたが、外国からの玄関口であったことから、たびたび伝染病が流行しました。


近代工業が盛んだった兵庫県は、大正期には、第1次世界大戦による好不況の影響を強く受け、大正デモクラシーを背景にして、米騒動や労働争議・小作争議がたびたび起きて、金融恐慌により、さらに激しくなっていきました。このため、県による景気・失業対策や、賀川豊彦らによる貧民救済事業など社会事業が活発に行われることになりました。


昭和初期には、財閥にまで成長していた鈴木商店が破綻するなど、経済恐慌は深刻化し、それに続く第2次世界大戦では、空襲により神戸や姫路など都市部が焼け野原になるなど、県内の産業経済や県民の生活は著しい打撃を受けました。


この時代、医療機関、教育機関や鉄道等の交通機関、電話や電気・ガス・水道といったインフラの整備がさらに進んでいきます。県政は県会を中心とした議会政治へと成長しましたが、戦争の拡大につれて戦争協力体制の確立に重点を向けることになりました。


6昭和後期~平成期

敗戦により、日本は連合国軍の占領下に置かれ、民主主義国家として、女性の参政権を認め、知事や市町村長を直接公選制とするなど選挙制度や地方制度を改めたほか、税制改革・農地改革を実施し、教育制度を刷新するなど、社会制度は再び大きく様変わりします。県内では、戦災復興の過程で産業経済基盤の整備、町村合併が進みました。


日本経済は著しい成長を遂げ、神戸港における貿易額も著しい伸びを示すようになりました。播磨地域の工業開発が進み、鉄道や道路など交通網の整備が一層進んで、人口の増加とともに大規模な宅地開発も行われました。県民の生活水準も向上しましたが、繁栄の一方で現れた過密・過疎・公害・消費者問題などが深刻化します。


その後、ドルショックやオイルショックが相次ぎ、高度経済成長から一気に安定成長時代に、さらに低成長の時代になりました。


平成期には、バブル経済の崩壊を引き金にして深刻な不況に陥るとともに、阪神・淡路大震災によって、県内は大きな被害を受けましたが、県では、21世紀にふさわしい兵庫の創造を目指して、阪神・淡路大震災からの創造的復興や、少子・高齢化、高度情報化、地球温暖化といった課題に取り組みました。


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