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釉薬を塗布した陶器瓦(釉薬瓦)は、現在、時代にマッチした洋風瓦(平板瓦)を製造しているが、銀色の炭素膜でコーティングされた「いぶし瓦」は良質の粘土と特有の製法により、優雅な高級品として根強い人気を得ている
本県における粘土瓦製造の歴史は古く、淡路国分寺(旧三原町)等の発掘調査から奈良時代に始まったと推定されている。
また、明石地方では室町末期に社寺、築城用に作られていた。これが江戸中期に至り、当時の明石城主松平直明が勧業政策のひとつとして採り上げて以来盛んとなり、県下各地で生産されるようになった。
現在では、淡路地方を中心として姫路、丹波方面等においても生産されているが、平成7年に発生した阪神・淡路大震災の際の「瓦の重さが家屋倒壊の一因となった」とする説の流布によりイメージダウンが甚だしくいまだに尾を引いている。
業界では当時瓦の無償提供キャンペーンやその後テレビCMの放映、パンフレットの配布などの対策を講じ、平成12年には阪神・淡路大震災クラスの地震でも崩れない新しい瓦屋根工事方法「ガイドライン工法(耐震工法)」を瓦業界で公表し、イメージ改善に努めながら新商品開発など販路の拡大に努めている。
特に淡路瓦は県内99%の粘土瓦を製造し、近年の飛躍的な製造技術の向上により寒冷地でも使用が可能となり、販路の拡大、需要喚起に向け鋭意努力している。生産工程図(PDF:32KB)
淡路瓦は江戸時代の始めの1610年(慶長15年)に姫路領主池田三左衛門輝政が淡路6万石を拝領し、輝政の三男の忠雄が淡路の領主となり、岩屋城修築と洲本市由良の成ヶ島に由良成山城を築いた。その時、忠雄は播州から播州瓦の名工、清水理兵衛を呼び寄せ城の瓦を焼かせたのが現在の淡路瓦の始まりと言われています。寛永年間には現在の南あわじ市津井を中心に発展し、明治に入って急速な需要の伸びに支えられ産地を形成した。もともと原料粘土が豊富なうえに、大消費地(京阪神)への近接性、海上輸送の利便性などが当地発展の要因である。
当地方では、需要の推移に対応して昭和36年頃からトンネル窯による陶器瓦(釉薬瓦)の生産技術を導入し、製造を開始した。これが時代のニーズにマッチし、急速に生産量が増大したが昭和60年頃から建築様式の変化、本物志向等により、いぶし瓦が急速に販売を拡大するにつれて、陶器瓦(釉薬瓦)を製造していた企業も次第と「いぶし瓦」に転換していった。
現在は、銀色の炭素膜でコーティングされた「いぶし瓦」が主力で生産の3分の2を占めている。3分の1は釉薬を塗布した陶器瓦を生産している。「いぶし瓦」は良質の粘土と特有の製法により、優雅な高級品として根強い人気を得て、全国の3割以上を占めている。また、新しく開発された「黒いぶし瓦」や「古代いぶし瓦」は従来の「いぶし瓦」と比べると耐寒性に優れ、変色しない特性や色目が古瓦に近い事から国内では伝統建造物保存地区や古民家再生などに使用され、一般住宅にも広がり始めている。海外では耐寒性と色目が高く評価され中国・台湾の社寺を中心に使用されており、年々輸出が伸びている。また、陶器瓦(釉薬瓦)は時代にマッチした洋風瓦(平板瓦)を製造し、需要をさらに推し進めている。
藩主松平直明の勧業政策以降、大きな発展を遂げた明石瓦は従来のいぶし瓦の需要の減少に伴い、昭和12年頃に愛知県三河地方から塩焼瓦の製法を導入し、30年代には最盛期を迎えるに至った。現在では製品の主流が陶器瓦(釉薬瓦)の高級品に移行していたが、押し寄せる波にうち勝てず、現在では粘土瓦製造事業所はなくなった。
住所:〒656-0332南あわじ市湊134
電話:0799-38-0570
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