湊川隧道構築の背景
湊川隧道の構築は、上水道事業(奥平野浄水場他)、港湾事業(兵庫運河開削)と並ぶ神戸市三大事業の一つとされています。この事業の特徴として、大きくは次の点をあげることができます。
湊川改修前のこの地区では、慶応2年(1866)、明治7年(1874)、明治29年(1896)と、幾度も洪水が発生しており、治水対策は、当時の都市政策の大きな課題でした。特に改修工事のきっかけとなった明治29年8月の大水害では、湊川の堤防が100メートルにわたり決壊するなど甚大な惨事となり、この災害対策は
「神戸市目下の急務」と当時の新聞に報じられています。
湊川では、花崗岩の風化によって生じた土砂が六甲山から大量に流出し、放置しておけば神戸港の機能を低下することになると指摘されていました。
また、天井川である湊川は、高さ6メートル以上にも達する長い堤防が築かれていて、これが交通、経済活動等の面において、神戸と兵庫を分断する障害となっていました。このようにこの事業は、神戸港への土砂流出防止対策や、湊川堤防・河川敷地の平坦化(付替え後の河川敷地は後に"新開地"として発展する。)という目的を有しています。
この工事は、神戸市の発展策として必要なこととして認識され、資産運用の面からそれに関わろうとした有力者が多く現れました。地主や商人、実業家などが加わり、実際の事業運営にあたっては「湊川改修株式会社」が結成され、民間事業として行われました。
なお、その後、明治29年(1896年)の河川法の成立により、明治政府は大河川の治水事業を積極的に進め、以後、河川改修には為政者の意志が強く働くことになりました。このため、こうした事業が当時民間事業として行われたことは非常に稀なケースと言えます。
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