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明治 |
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事項 |
内容 |
関係人物 |
元年 |
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地元の有志が政府要人に現地視察を願ったが実現せず。 |
北風正造、藤田積中ら |
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10年 |
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横浜と神戸の改修の計画に伴い、湊川の付換えが世論にのぼり始める。 |
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15年 |
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神戸区長、県に付換え工事の実測を願う。 |
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17年 |
10月 |
「兵庫湊川河道変換之儀」 |
湊川起点より市街地を避けて南下し、苅藻川尻へ抜く流路計画。北風正造らの出願に、兵庫区長の副申を付けて、兵庫県令宛に申請。 |
北風正造、藤田積中、神田兵右衛門ら7名 |
20年 |
5月 |
「兵庫湊川々路変換之儀ニ付請願」 |
兵庫県知事宛申請。 |
北風正造、藤田積中、神田兵右衛門、小曽根喜一郎ら21名 |
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6月 |
「湊川附換之儀御願」 |
藤田伝三郎が個人で兵庫県知事より、すべて私費でなら許可の指示を受ける。 |
藤田伝三郎 |
21年 |
3月 |
「湊川付換の儀ニ付再願」 |
出願人を増やし、組合として出願。会下山の南、皿池の北側を通って苅藻川へ達する流路。 |
藤田伝三郎、鴻池善右衛門、村野山ら7名 |
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この後 |
付換事業を神戸市の川崎正蔵が譲り受ける。 |
川崎正蔵 |
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23年 |
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付換の失敗。 |
藤田伝三郎 |
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27年 |
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発起人集会(1月22日) 創立委員会(2月5日) 発起人会(6月5日) |
鴻池・藤田が交渉し、共同事業へ |
鴻池・藤田→小曽根喜一郎、村野山人ら7名 |
27年 |
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設計指導を行う。 |
計画を改正して出願するため、設計その他重要事項の調査を土木監督署長内務技師に依頼。 |
沖野忠雄 |
28年 |
1月 |
申請者の追加。 |
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この頃 |
会下山の北を通す流路の計画案が出される。 |
予算26万円の相違。 |
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10月 |
神戸市会で議論。 |
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29年 |
4月 |
「湊川付換の儀付願」(4月22日) |
計画の修正。 クッターの式の採用。 |
小曽根喜一郎、神田兵右衛門、藤田伝三郎、大倉喜八郎ら23名 |
4月 |
神戸市会で議論(4月27日) |
概ね了承される。 |
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4月 |
「湊川付換願いにつき副申」(4月27日) |
神戸市が副申を付けて兵庫県知事に申請。 |
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この頃 |
永沢町・三川口町・柳原町の住民らで反対運動。 |
「堤防破壊等の恐れ」から代替案を提出。「絶対に付換の必要なし」との署名運動。 |
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7月 |
陳述書の提出(3回)。 |
今井善右衛門、草鹿申子太郎ら |
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7月 |
緊急事件の告知書 |
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8月 |
神戸地区に大水害が起こる。 |
改修計画実現の直接のきっかけとなる。 |
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10月 |
付換を求めて上京。 |
藤井一郎ら |
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この頃 |
付換反対意見を内務省に陳述。湊川堤上での反対派大懇談会を計画。 |
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10月 |
「湊川附換工事之儀ニ付上申」 |
会下山をトンネルで通す流路へと変更。 |
武岡豊太 |
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12月 |
「湊川流域付換命令書并請書」 |
兵庫県知事が、湊川付換えを許可。 |
小曽根喜一郎ら32名 |
30年 |
6月 |
工事計画書 |
径20尺の円形断面。 |
滝川釖ニ |
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8月 |
湊川改修株式会社発足 |
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8月 |
「湊川付換工事設計変更之儀ニ付願」 |
断面形状が馬蹄形に変更。 |
沖野忠雄 |
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10月 |
起工 |
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34年 |
8月 |
竣工 |
湊川改修と人物関係図 |
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