更新日:2022年4月8日

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湊川改修の経緯

 湊川改修事業は、明治初期からの地元の有力者や財界人などの様々な人々が動き、幾度もの計画の変換などを繰り返し、ようやく実現したものでした。

経緯

 

明治

 

事項

内容

関係人物

元年

 

地元の有志が政府要人に現地視察を願ったが実現せず。

 

北風正造、藤田積中ら

10年

 

横浜と神戸の改修の計画に伴い、湊川の付換えが世論にのぼり始める。

   

15年

 

神戸区長、県に付換え工事の実測を願う。

   

17年

10月

「兵庫湊川河道変換之儀」

湊川起点より市街地を避けて南下し、苅藻川尻へ抜く流路計画。北風正造らの出願に、兵庫区長の副申を付けて、兵庫県令宛に申請。

北風正造、藤田積中、神田兵右衛門ら7名

20年

5月

「兵庫湊川々路変換之儀ニ付請願」

兵庫県知事宛申請。

北風正造、藤田積中、神田兵右衛門、小曽根喜一郎ら21名

 

6月

「湊川附換之儀御願」

藤田伝三郎が個人で兵庫県知事より、すべて私費でなら許可の指示を受ける。

藤田伝三郎

21年

3月

「湊川付換の儀ニ付再願」

出願人を増やし、組合として出願。会下山の南、皿池の北側を通って苅藻川へ達する流路。

藤田伝三郎、鴻池善右衛門、村野山ら7名

 

この後

付換事業を神戸市の川崎正蔵が譲り受ける。

 

川崎正蔵

23年

 

付換の失敗。

 

藤田伝三郎

27年

 

発起人集会(1月22日)

創立委員会(2月5日)

発起人会(6月5日)

鴻池・藤田が交渉し、共同事業へ

鴻池・藤田→小曽根喜一郎、村野山人ら7名

27年

 

設計指導を行う。

計画を改正して出願するため、設計その他重要事項の調査を土木監督署長内務技師に依頼。

沖野忠雄

28年

1月

申請者の追加。

   

 

この頃

会下山の北を通す流路の計画案が出される。

予算26万円の相違。

 

 

10月

神戸市会で議論。

   

29年

4月

「湊川付換の儀付願」(4月22日)

計画の修正。

クッターの式の採用。

小曽根喜一郎、神田兵右衛門、藤田伝三郎、大倉喜八郎ら23名

 

4月

神戸市会で議論(4月27日)

概ね了承される。

 
 

4月

「湊川付換願いにつき副申」(4月27日)

神戸市が副申を付けて兵庫県知事に申請。

 
 

この頃

永沢町・三川口町・柳原町の住民らで反対運動。

「堤防破壊等の恐れ」から代替案を提出。「絶対に付換の必要なし」との署名運動。

 
 

7月

陳述書の提出(3回)。

 

今井善右衛門、草鹿申子太郎ら

 

7月

緊急事件の告知書

   
 

8月

神戸地区に大水害が起こる。

改修計画実現の直接のきっかけとなる。

 
 

10月

付換を求めて上京。

 

藤井一郎ら

 

この頃

付換反対意見を内務省に陳述。湊川堤上での反対派大懇談会を計画。

   

 

10月

「湊川附換工事之儀ニ付上申」

会下山をトンネルで通す流路へと変更。

武岡豊太

 

12月

「湊川流域付換命令書并請書」

兵庫県知事が、湊川付換えを許可。

小曽根喜一郎ら32名

30年

6月

工事計画書

径20尺の円形断面。

滝川釖ニ

 

8月

湊川改修株式会社発足

   

 

8月

「湊川付換工事設計変更之儀ニ付願」

断面形状が馬蹄形に変更。

沖野忠雄

 

10月

起工

   

34年

8月

竣工

   

湊川改修と人物関係

湊川改修と人物関係図

 湊川改修事業は上図に示すように、地元の有力者やトンネルや河川の技術者など、多くの人々の力が結集されて実現したものでした。

 

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