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『淡山疏水』の偉業にふれる
田畑に水を引くため、土地を切り開いて造った水路を“疏水”と言います。農業、とりわけ稲作には多くの水を必要とするため、あまねく全国において水を確保する努力が重ねられてきました。その結果、国内の疏水延長は基幹的農業水路だけで約5万km。実に、地球1周を上回る距離です。
神戸市内にも国内有数の疏水が流れています。琵琶湖疏水や安積疏水と並んで日本三大疏水の1つに挙げられることもある『淡山(たんざん)疏水』です。
北区淡河町の淡河川(淡河頭首工)から西区神出町(練部屋分水)まで延長約18kmの幹線水路に代表される淡河川疏水。そして、北区山田町のつくはら湖から西区の宮ヶ谷調整池(淡河川疏水との合流点)まで延長約5㎞の幹線水路に代表される山田川疏水。この2つを合わせて、『淡山疏水』と呼んでいます。
『淡山疏水』は、明石川、美嚢川、加古川に区切られた「いなみ野」の地を潤すために明治から大正にかけて築造されました。周りに河川があるのに、なぜ遠く離れた北区から水を引く必要があったのでしょうか。その理由は、「いなみ野」が六甲山の地殻変動に伴って形成された台地であるからです。周りの河川より30~40mほど高いため、目の前を流れている水を汲み上げることができなかったのです。
江戸時代の1771(明和8)年には既に疏水の構想がありましたが、実現には至らず、水に恵まれないまま綿花中心の畑作が続けられていました。しかし、明治に入ると低価格の綿が輸入されるようになり、綿の販路が失われていきます。さらに、1875(明治8)年の地租改正に伴う増税で、「いなみ野」の住民は、稲作への転換を決断せざるを得なくなります。その結果、住民の発願で、しかも、国家事業の琵琶湖疏水や安積疏水とは異なり、全額を地元負担で成し遂げようとする疏水事業が進められることとなります。
1888(明治21)年、淡河川疏水事業に着工します。最大の難関となったのは御坂の谷を流れる志染川の横断でした。谷両側の標高差を利用し、川を石造アーチ橋で跨いだ後に“連結管の原理”を用いて50m上の山頂まで水を押し上げる施設が造られました。管の材料には、当時としては最先端のマイルドスチールが使われています。この施設は『御坂サイフォン』と呼ばれ、日本で最初の大規模逆サイフォンです。設計と工事は、県の粕谷素直技師が担当しました。
また、28か所もの隧道が計画され、その延長は5㎞に及びました。いずれの工事も難航したのですが、中でも芥子山(けしやま)隧道は、脆弱な地質で請負人の手に負えず、県直営で工事を進めたそうです。
幾多の困難を乗り越え、1891(明治24)年4月、淡河川疏水事業は完成します。そして、1911(明治44)年に山田川疏水事業にも着工、1919(大正8)年に完成します。
構想から150年、先人が知恵や工夫を凝らして実現した『淡山疏水』の偉業は、さらにスケールの大きな「東播用水事業」に受け継がれ、「いなみ野」の台地に広がる農地を、今も潤し続けています。
『淡山疏水』は、「疏水百選」(農林水産省)のほか、「残すべき文化的景観」(文化庁)や「兵庫県の近代遺産」(県教育委員会)に選定されています。また、世界中で47施設しかない「世界かんがい施設遺産」(国際かんがい排水委員会)の1つに登録されるなど、先進的な測量技術や土木技術のみならず、疏水とため池が織りなす特有の景観といった歴史的・文化的価値が高く評価されています。
来年は『淡山疏水』完成100年、そして県政150周年の記念すべき年です。神戸県民センターでは、ウォーキングイベントや展示会など、先人の偉業にふれる機会を例年以上に設ける予定です。
皆さまのご参加をお待ちしております。
神戸県民センター長 谷口 賢行
≪以下に「過去の神戸県民センター長メッセージ」のリンク先を掲載しています。≫
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