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更新日:2018年8月9日

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平成30年8月センター長メッセージ(神戸県民センター長 谷口 賢行)

明治29年8月大水害と湊川隧道

旧湊川新湊川流路 かつて湊川は、現在の湊川公園から新開地へと流れていました。
 高さ6mを超える堤防が続く天井川で、東西交通に支障を来たし、洪水も頻繁にあったことから、早くから流路付替の議論はありました。しかし、実現は容易ではありませんでした。

 契機となったのは、明治29(1896)年の大水害です。
 8月30日深夜、台風に伴う豪雨で湊川の堤防は100mにわたり決壊。多数の家屋が流失、浸水し、死者38名、負傷者も57名に及ぶ惨事となりました。この水害後、当時の新聞で「神戸市目下の急務」と報じられるなど、流路付替に向けた世論が急速に形成されていきます。

 水害の翌年には、地元の小曽根喜一郎、東京の大倉喜八郎といった実業家と、兵庫津名主や区長を歴任した神田兵右衛門らを発起人とする湊川改修株式会社が設立されます。
 上水道事業(奥平野浄水場他)、港湾事業(兵庫運河開削)と並び、神戸市三大事業の一つとされる湊川隧道の構築は、株式会社によって行われたのです。この直後に、明治政府は河川法を成立させ、河川改修を積極的に進めたことから、民間による事業は非常に稀なケースと言えます。

扁額 当初、新湊川の流路計画は、菊水橋付近から会下山の南側に新しい川を掘る案でした。
 しかし、住民から反対意見が多く、会下山をくぐり抜ける案に変更されます。こうして、高度な土木技術を用いた日本初の河川トンネル・湊川隧道が誕生することとなります。

 5年の歳月を費やし、明治34(1901)年に新湊川は完成します。記念として湊川隧道の坑門に掲げられた扁額には、上流側に「湊川」、下流側に「天長地久」と記されました。以来、湊川隧道は幾多の洪水に耐え、扁額の言葉のとおり、河川トンネルとしての役目を長く果たし続けます。

 しかし、平成7(1995)年1月17日の早朝、地震により新湊川は大きな被害を受けます。護岸に亀裂が生じ、一部は倒壊。湊川隧道も下流側坑門が崩壊、隧道内部の煉瓦積みも剥離してしまいます。

 災害復旧にあたり、神戸土木事務所は、周辺の市街地化を考慮し、河道断面積を拡大する必要があったことから、湊川隧道については北側に新しくトンネルを作ることを決めます。一方、この頃から土木学会において、歴史的な近代土木遺産の価値を評価し、保存すべきとの論議が行われるようになっていました。このため、神戸土木事務所は、災害復旧事業と並行して、湊川隧道の歴史的価値を評価する有識者委員会を設けます。
 評価の結果、委員会から「兵庫県・神戸市の歴史・文化を語る遺産として、将来のまちづくり、さらには土木技術の継承に役立てるべきである」との提言があり、保存と活用のため、連絡通路や照明設備の整備を行いました。

隧道写真 平成12年(2000)12月、新トンネルの完成により、湊川隧道は100年にわたる歴史に幕を閉じます。そして、歴史的価値を有する近代土木遺産として、新たなスタートを切りました。

 神戸土木事務所では、「湊川隧道保存友の会」の協力のもと、毎月第3土曜日の午後に一般公開、11月には通り抜けの行事など、先人の偉業を後世に伝える取組を行なっています。これからも、湊川隧道を県内外の多くの方に関心をもって頂けるよう、様々な取組を続けていきたいと考えています。

 神戸県民センター長 谷口 賢行

 

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